「青くて痛くて脆い 住野よる」を読んで

2018年04月26日 17:47
 肉体を成長させるのは食事である。精神を成長させるのは何だろうか。
それは、読書である。読書とは主人公と一緒に本の世界に旅立つことであり、心の中で精神的な化学変化が生じて、今までの自分から一つ階段を上った自分を見ることである。自己認識の明確化である。それまで気づかなかった自己中心的な考え方が否定され、モヤモヤしたものが雲散霧消する状態である。
 僕こと田畑楓は、秋好寿乃との出会いにより、「他人と距離を置き、その人の人生に立ち入らない。」という行動規範とはまったく逆の寿乃と出逢い、秘密結社であるモアイを設立するが、しだいに創設の意図とは離れていくモアイから身を引き、学生生活を送るようになる。就職も決まり精神的な開放感の中で、理想を求めたモアイが変遷し、学生に就職活動の手助けをしている社会的活動サークルになり下がったモアイを潰しにかかるのであった。
 さて、この本の題名は上記の通りであるが、楓が二年半会わなかった寿乃のモアイをつぶす動機の奥深くには、嫉妬があったのである。それは、理屈では正当化できるが、結局は行動できない男の嫉妬であった。それに気付いたとき、楓は、寿乃に謝罪するために自転車を走らせる。楓の精神は、自己欺瞞を認識し、罪滅ぼしの激走だった。個人的な自己満足の世界を抜け出し、社会的活動の意義を見出したといって良い。批判するのは自己の行動不足の裏返しであり、言い訳に過ぎないと気づくまで、寿乃を傷つけ罪を犯すことにより、自己の心に潜む我儘な嫉妬に気付いたのである。
 社会性を身につけるとは、少なからず自己否定の道であり、自己の殻をぶち破らなければならない。理想と現実の違いは外的な要因でもあるが、内的な要因の確認により精神的に大人になっていくのである。過ちによる目覚めは、楓を社会的な存在へと成長させたのであった。
 この本に出会い、大学生活を顧みながらする読書は、久々に夢中になる時間を持つことができた。大学において自分の行動規範が通用しないことを知らされる時、立ち止まり、後退するか、前進するかを選択せざるを得ないお立場に追い込まれる。いい加減な立場を変わらず維持することは、成長が停止したままになる。そんなとき、若い君たちは、ぜひ、行動を起こしてほしい。逃げるのではなく、自分なりに立ち向かうのである。
 解決策を見つけて、行動を起こす。もし、その方法が間違いで、行動が間違っていると感じたならば、改めて違う道を探すのである。間違うことこそ学びである。成長を妨げるのは、やり直さずに諦めることである。人生には終わりはない。諦めるという言葉は、生命がある限り存在しないのである。成長は、死ぬまで続く。精神が死なないとすれば、永遠に続くのである。