それは、可能性の追求
人生に、2度はありません。もし、私たちが、四百年くらい長生きして、何度も百年の人生をやり直せるなら、楽しく、有意義な時間が多く持てそうな予感がしますが、果たしてそうでしょうか。やり直せるのなら、初めから真剣に取り組むかは疑問です。失敗してもやり直せるなら、必死で頑張る必要はありません。また、何度も機会があるのですから。そうすると、逆に言えば、現実では、私たちはチャンスをものにして、貪欲に、しかも謙虚に暮さねばならないことがわかってきます。人生の目的は何だろうと、悩んでいる暇はないのかもしれません。事実、発展途上国の子供たちは、朝から晩まで働かされるのは良いほうで、食べるものも十分に与えられないとも聞きます。あるいは、小銃を構えて、軍隊に入るという者までいます。子供がすでに、相手を殺さねば生きていけない世界にいるとすれば、生きる目的で悩む余裕はなく、また、食べるものが不足している子供たちに、生きる目的を考えろというほうが無理でしょう。
先進国に生まれ、飢えることなく、戦争とも無縁で、子供時代には働かず、大人になってもニートとして親のすねをかじる日本の現状では、それこそ、生きる目的は何だろうという疑問も、人生とは何のためにあるのかという問いも、自然に湧いてくるのかもしれません。だからと言って、日本の子供たちに、精神的な苦しみや、悲しみがないというわけではなく、年間3万人ほどの自殺の多い国もほかにないのです。いったい何が私たち日本人の心を病んでいるのでしょうか。外人から見れば、治安が良く、礼儀正しく、優しい日本人なのに、心の中では、お金や、友達関係で傷つき、立ち直れない人間を作り出している世間であり、社会なのです。日本人気質というものが、自殺しやすいとすれば、文明開化で外国の文化を取り入れ融合させたように、外人気質を取り入れて、自殺しない強い意志を持った日本人になるために努力すべきでしょうか。いや、努力という国民性がもともとよくないのだというかもしれません。頑張れば、何でもできるという、精神一到何事かならざらんは、日本人気質の諸刃の剣です。結果が出ずに落ち込むと、そこに救いはないからです。
それに対して、キリスト教信者は、最後はすべて神にゆだねます。日本人にも、人事を尽くして天命を待つということばがありますが、最後まで罪の意識にさいなまれて、うつ病になり、死を選ぶ若者や大人が多くみられるのも事実です。日本では、外国よりも、真摯な姿勢や、真面目であることに、人生の価値観をあてはめがちです。強いが、もろいのが、日本人です。鋼のように強く、竹のようにしなやかと言われますが、現実は、なかなか対応力や、心の柔軟性が及ばないのが、人間です。純粋な単民族国家なのだからでしょうか。武士道の潔しを美とする価値観のせいでしょうか。関東人の私には、関西人に合うと余裕があると感じて、違う雰囲気を持っているのは、韓国や中国人と多く接する機会を歴史的に持ってきた影響だからでしょうか。余裕を持つには、外国へ行き、生活するといいといいます。あちらでは、時間がルーズなうえに、約束もいい加減です。日本人のような、厳格さはあまり見られません。そのいい加減さとの共存が、日本人の心を豊かにし、うつ病や、自殺者を減少させる一つの精神的な特効薬となりうるかもしれません。生きることが最重要課題であり、次に、親や親友との関係や人生の価値が出てくるのですから。生きなければ、何も生まれないわけですから。