キムタクの宮本武蔵を見て

2014年03月22日 17:14

 テレビで木村拓哉主演の宮本武蔵が3月15・16日と連続放送された。久しぶりの宮本武蔵の放映に心が騒いで、待ちどおしく迎えた。キムタクといえば二枚目の華奢な俳優なので、武蔵の荒々しさは伝わらず、むしろ、時代設定こそ四百年前だが、今風の田舎育ちの青年が一途に剣を通して出世する様は、まるで現代の都会育ちの青年がITを通してのし上がる生き方を、時代を替えて描いたもののように感じていた。

 また、キムタクが全く強く見えないのも愛嬌があった。切られたり倒されたりする相手のほうが、殺気も強く数段上に見えたのが滑稽だった。キムタクは、へっぴり腰で田舎剣法丸出しだった。正統な師も流派もなく自己流だから仕方がないという設定なのだろうが、剣術というよりはケンカに近い剣の構えだった。本人は剣道2段のはずだから、これは演出なのだろう。とすれば、そこには、泥臭さを表現する意図がうかがえるのだが、精神的な強さは感じられなかった。

 キムタクを起用したのには、もちろん監督の現代の若者用にアレンジしたかったからだとと思われる。正直なところ、周りの俳優さんたちが豪華なのには脱帽した。キムタクよりもそれぞれの個性が強く出て、そちらのほうが強く印象に残っている。野性味のないキムタク武蔵は、やはり、現代風の若者の象徴としての武蔵像なのかもしれない。

 実は、大学時代に吉川英治作の宮本武蔵を座右の書と崇めるくらい読んでいた。人生観や恋愛観などをそこからかなり吸収していた時が懐かしい。今考えると、自分の生き様の芯がほしかったに違いない。十代の終わりに、将来の不安や夢を抱くとき、自分の考えのよりどころであり、行動の規範となるようなものがないと気づいたのが、受験勉強に明け暮れて大学に入り、解放された時だった。

 知識は、いくらでも積み重ねられる。しかしながら、未知のものや将来のことで、行動を起こそうとするときに求められるものは、知識ばかりではなく、考え方や判断力である。それには、哲学や宗教的な観点が必要であり、見知らぬ人生にともすればつぶされそうになる、若者特有の大いなる不安は、私の心に巣喰い始めていた。そんなときに出会った本が宮本武蔵だった。文章や物語の面白さだけでなく、精神的な魅力に引き込まれるのを感じた。

 総括として、4時間の内容だったので物語の展開が早く、娯楽番組として楽しめたのではないだろうか。佐々木小次郎の沢村一樹の存在は、最初の覆面姿が異様で、特に大きく感じられた。松田翔太の吉岡道場の長男清十郎役は、妖艶なほどにはまっていた。又八役のユースケサンタマリヤも頼りなさを見事に演出していた。武田鉄矢の石舟斎も味があり、宝蔵院の西田敏行も百姓仕事で泥臭さを醸していた。沢庵役の香川照之の目力も強かった。そして、お甲役の真木よう子も慎ましく美しかった。二日間は、大学時代を回顧しつつ楽しい夜だった。