相棒12孤独の研究

2016年09月23日 16:36

作家の条件とは

 杉下右京と甲斐亨が無職のネット批評家と紅茶を通して、批評家のアパートで語り合う場面で鳥森凌の小説について「彼は作家に必要な劣等感や渇望感、何らかの欠落が欠落している。」というくだりがある。その言葉を聞いて、村上春樹の小説を思い出した。

 初期の村上作品によく見られるのであるが、「僕は頭が悪いので」「耳の形が悪いので」「論理的思考が足りないので」など、主人公に自分が劣等感の塊の様なセリフをつぶやかせている。これは少なからず作者本人の投影なのではないかと感じることが多い。批評家毒島(ぶすじま)は、毒薬というペンネームでネット上で辛辣な批評を鳥森にしていたのである。

 小説家のペンを執るエネルギーは、自己葛藤感から来るものがあり、そこには何らかの小説を通しての証明欲が存在しているはずである。それが強ければ強いほど、小説は長編になり、壮大なドラマが展開される。芥川龍之介のように短編で明確に問題をえぐり、定義するのもいいが、人生という長い道のりを教唆するには、長編物語を通して提示するのが小説の醍醐味であり、小説家の腕の見せ所であるはずである。そして、その小説が認められるということは、小説家の素養をたたえられることに他ならない。

 小説を私が最初に注目にしたのは大学1年の夏であり、北杜夫は私が小説を読み始めた作家である。東北大学医学部卒業という異色の経歴を持つその作家のドクトルマンボウ航海記というバラエティー番組みたいな小説から、私の読書人生は始まったのである。大学時の下宿屋で初めて孤独な生活を送っていた私は、読書を身近なものとして考え始めたときだった。

 本を読むとは、娯楽としての読書は除いて、自己確認のための精神的な薬としての時間だった。読書は食物が肉体のための栄養のごとく、精神のための養分であった。本と真摯に向き合うとき、そこには自分が求める答えがあると知ったのは、大学時代の大きな収穫だった。それは、科学のレポートを書くときに図書館委ある学術書をあさり、調べるのと何ら変わりはない。違いがあるとすれば、答が知識で与えられ理解するか、物語を通して心情移入し理解するかによる。

 毒島は、右京に独自にブレンドした紅茶を手渡しながら、うそぶく。「孤独と孤高はちがう。」と。では、孤独と孤高を分けるのは何だろうか。それは「向上心」である。人生は孤独なものだが、不断の向上心により、孤高の道になっていく。それは登りつめれば詰めるほど、周囲から理解しにくくなっていく。その孤立に耐えられるものだけが、孤独の道を歩み、孤高の人になっていく。

 今は交代してしまったが、和製シャーロックホームズの右京に、亨のワトソン役がはまっていたのだが。